古小代と窯印
古小代に使用された窯印(かまじるし)として代表的なものに「牝小路」「葛城」「松風」「小代」「五徳」などがあります。
そして、それらの窯印が押されたのは江戸後期になってからと考えられています。
まず、牝小路家と葛城家は瓶焼窯を共同使用していました。
両家の当主が苗字御免となったのは1821年のことであり、その年から牝小路と葛城の姓を名乗るようになります。
そして窯印を押す目的は他の焼物師・他窯と区別するためであると推測できます。
そのため小代焼生産の転機となる瀬上窯が開始された1836年以降、窯印を押す行為が本格化した可能性があります。
ただし、牝小路家と葛城家は瀬上窯で作陶したと思われる時期があるため、その点には注意が必要です。
【瓶焼窯】
「牝小路」「葛城」「松風」「小代」などの窯印が確認されています。
「松風」の窯印は瀬上窯の五徳焼に対抗するためではないかと考えられます。
【瀬上窯】
「五徳」「小代」などの窯印が確認されています。
小代印の「小」の字が「水」の字に見えることから「みずしょうだい」とも呼ばれます。
また「小代甚」の窯印は細工人・甚右衛門の使用印であると思われます。
【野田窯】
幕末に瀬上窯から分かれた野田窯では「松風」「禝々軒製」などの窯印を用いています。
『江戸後期の作である=窯印が必ず押されている』
というわけではありません。あくまでも時代を判断する要素の1つにすぎませんのでご注意ください。
2022年11月11日(金) 西川智成
古小代すべてに窯印が押されているわけではありません。
『古小代焼讃歌』掲載作品。
古小代(江戸期の小代焼)を展示替え
小代焼中平窯では
「ただ作品を販売するだけでなく、小代焼の歴史や制作背景にも触れていただきたい!」
という思いがあり、古小代(江戸期の小代焼)の展示や工房見学を行ってきました!(^^)!
先月~今月にかけて古小代の展示替えを行いまして、新しく向付と風炉の展示を始めました。
どちらも【古小代焼讃歌】という図録に掲載されている作品です!
また、同時に小代焼の歴史についての略年表パネルをデザインしていただきました~!
以前は手作りのデコパネを置いていましたが
「ん~、もっとちゃんとしたパネルの方が小代焼の価値が伝わるんじゃないか…?」と考え、きちんとした物を設置しました。
伝統的な工芸品ですので様々なご意見を頂戴することもありますが、
まぁ 理屈抜きで古小代が好きですし、小代焼の制作は楽しいのです(^^)
「焼き物好きの方々に少しでも良さが伝わってくれれば!」と思っています。
工房見学もいつも通り行っていますので、興味のある方はお気軽にスタッフまで声をお掛けください。
2022年8月6日(土) 西川智成
江戸期の小代焼
小代焼の歴史・略年表
陶工・源七について ~小代焼開祖の一人~
最初に書いておきますが大変マニアックな内容になっております(^^;
また、私は歴史の専門家ではありませんので誤認や資料の見落としがあった場合は申し訳ありません。
もし間違いがありましたら、お問い合わせフォーム等からご指摘いただけますとありがたいです…!
先日、古陶磁研究家の方から大変興味深いお話を聞きました。
今回の「やきもの日記」は牝小路家初代である陶工・源七についてです。
小代焼は約400年前、牝小路家初代・源七(+その息子と孫)と葛城家初代・八左衛門が肥後へ移住したことから始まるとされています。
1753年に玉名郡奉行所に提出された先祖書によると、源七は子、孫とともに三代で肥後へ移住したとのことです。
1630年生まれの孫・又兵衛が2歳の時に肥後へ来たとされますが、それが細川家転封1632年のことだとすれば数え歳では3歳のはずですので覚え違いであると思われます。
まぁ、個人的には1年違いなので許容範囲の間違いかと思います。
前置きが長くなってしまいましたね…!
言いたかったのは、私が知っている源七に関する事柄は 肥後移住時の出来事からなのです。
しかし先日、古陶磁研究家の方から肥後移住前/豊前時代の源七に関する文章を教えていただきました。
内容としては
上野焼・皿山本窯に関係すると思われる陶工(あるいは売子)から領主はかうろ(香炉の意か?)41点と茶碗32点を購入し、代金は米で支払っている。
それらの製品は一か所に収納されている訳ではなく、各陶工(あるいは売子)の手元にある。
そして製品を手元に置いている中の一人として「源七ニ有」との記述がある。
というのです!
※永青文庫『松本市彦・栗山伝助・田中猪兵衛・加藤親兵衛四人へ遣差紙控帳 御奉行所』より
上記の内容は2008年の『海路 第6号 【特集】九州やきもの史』に記載されています。
因みに1990年の『上野 高取 八代 小代』では高鶴元氏が丹後時代の源七について言及されています。
それによると『丹後細川能番組』の中に「たるや源七」という記述があるらしいのです。
しかし、作陶とは関係のない能出演者としての記述でしたので、私の知識ではこの「たるや源七」と「陶工・源七」が同一人物なのか判断がつかない状態でした…(^^;
源七は皿山本窯専属だったのか、当時存在していた他の窯と掛け持ちで勤めていたのかは分からないようです。
しかし、源七が皿山本窯と関係があり、細川家から注文を受けて作陶していたことが分かり感動しました(^^)
2022年5月24日(火) 西川智成
『海路 第6号 【特集】九州やきもの史』
中央に「源七ニ有」との記述あり
小代焼の作風は?(上野焼や唐津焼との比較)
以前も同じようなことを書きましたが、今回は小代焼の作風についてのお話です。
結論から言いますと、小代焼は江戸期から現代まで作風(技法や釉薬)の変化が少ない焼き物であると思います。
特に釉薬は藁灰釉を使い、流し掛けによる装飾が多いことはずっと一貫しています。
これは変化しないことの良し悪し、もしくは革新的であることの良し悪しに言及しているわけではありませんので誤解の無きよう…笑
しかし、変化のないor革新的であるということは常に相対的なものであって「〇〇と比較して。」という比較対象を必要とします。
私は最も比較対象として適切なのは上野焼、次に唐津焼であると考えています。
小代焼はそもそも上野焼の陶工が熊本へ移動したことがきっかけとなり始まりましたので、源流が同じです。
例えるならば兄弟(双子)のような間柄ですので、それぞれの違いを比較するのに最も適していると思います。
そして唐津焼ですが、これは小代焼や上野焼を含む朝鮮系陶器の中で最も規模が大きく全国的であるのが唐津焼であるからです。
また、小代焼で多用する藁灰釉は岸岳系古唐津にて初めて使用されたとされていますので、その変遷を比較することも適しているかと。
※小代焼や斑唐津に関して藁灰の使用には説がいくつかありますが、ここでは藁灰(もしくはイネ科の植物灰)を使用したという前提で書かせていただきます。ご了承ください。
【上野焼との比較】
小代焼の源流となった上野焼は細川家時代では、後の小代焼や初期高田焼に繋がるような作風です。
これは、おそらく細川忠興 もしくは細川忠利の好みであると思われます。
しかしその後、細川家が肥後入国してからは小笠原氏が藩主となり、新たな茶道師範の加入、陶工の代替わり等が重なって 薄作りで釉薬の種類が多いものへと作風が変化していきます。
特に江戸後期には、技巧に重きを置いた装飾の多い作風になったようです。
一方、小代焼の産地である肥後では 細川家の肥後入国以降は国替(幕府が大名の領地を差し替えること)がなく、基本的に細川家好みの作風で一貫していたと思われます。
また、江戸後期までは牝小路家・葛城家の一子相伝であり、他地域の陶工が制作に関わらなかったことも作風が変化しなかったことに影響していると思われます。
【唐津焼との比較】
当時の都市部や海外へも輸出していた唐津焼は朝鮮系陶器の中で最もメジャーな存在でした。
単純に生産規模が大きければ それだけ陶工や窯の数も多く、多様な技法・製品が生まれやすい環境となります。
また、大規模生産・大規模消費の唐津焼は販売先の好みに合わせて目まぐるしく作風を変化させました。
私たちが唐津焼と聞いて想像する斑唐津、朝鮮唐津、絵唐津は小代焼が制作され始める時代にはすでに作られなくなっていました。
斑唐津は藁灰系の釉薬であり、小代焼で言うところの白小代や青小代と同系統の釉薬となります。
ちなみに古武雄(二彩唐津や三島唐津‥弓野焼)は比較的長く続けられたようです。
一方、小代焼は瀬上窯開始までは瓶焼窯(牝小路家と葛城家の共同窯)を両家が1年交代で使用する程度の生産量でした。
江戸後期までは卸売りもしておらず、表向きには民間への販売も行われていませんでした。
そのため、多彩な作風が生まれにくい環境でした。
【まとめ】
以上のような比較から、小代焼は江戸期から現代まで作風(技法や釉薬)の変化が少ない焼き物であると言えます。
多彩な作風が生まれなかった背景には陶工の性格も関係したかもしれませんが、特段の証拠があるわけではありませんので ここでは深く言及しません。
ちなみに現代の作り手がどのような作風を目指すかは全くの自由であり 開かれているべきとも思います。
しかし、その中で「江戸期から近現代までの小代焼はこのような作風であった。」ときちんと説明することも重要であると思うのです。
私も「これは小代焼じゃないですよ~」と説明した上で磁器や鉄絵、梅花皮から立体作品まで作っています。
近々「休日に楽焼をやってみようかな」とも考えていたりして…笑
今回はめちゃくちゃ長文になってしまいましたね。
暇な時にでも読んでいただければ幸いです。
2022年2月10日(木) 西川智成
瓶焼窯跡 (熊本県南関町)
加藤唐九郎 桃山に挑んだ陶芸家
北大路魯山人の“用と美”
学生時代に購入した北大路魯山人氏の著書を読み返しておりました。
いや~、改めて読むと面白いですね(^^)
ずっと毒舌だと思っていましたが、年末に購入した川喜田半泥子氏の随筆の方がずっと毒舌でした 笑
そちらは別の機会に紹介します。
『魯山人味道』の方は美食がテーマですので、陶芸に興味がなくても面白いと思います。
若鮎と河豚の話がとにかく美味そうで、一度は本格的なものを食べてみたいと思っています。
まぁ お金と時間の問題をどうにかしなければいけませんが…笑
器について「用の美」とはよく耳にします。
しかし、和食器として用の美をここまで考えた人物は魯山人氏が一番ではないかと思います。
過去~現在まで真摯に取り組んでいる方は多くいらっしゃいますので言い切ることは難しいですが、少なくとも“同時代の同レベルで著名な陶芸家の中では一番”と思えます。
高校生の時は特に気にしていなかった魯山人氏ですが、30歳を前にして書籍を見返すことが増えました…!
魚(鮎)を生きたまま料亭へ運ぶ情熱や、日本料理を一品ずつ出すことの新しさを令和の現代で意識することはありません。
しかし、現在では当たり前のことの中に魯山人氏の創意工夫があり、それを気にしないほど日本文化に溶け込んでいます。
これは仁清を意識せずとも、陶磁器の贈答品売り場が仁清の影響を受けていることと同じだと感じます。
魯山人氏の生い立ちや美意識については、簡単には語りつくせぬところがありますが、今回はこの辺で。
2022年1月4日(火) 西川智成
学生時代に購入した魯山人氏の著書
「小代焼と言えば!」の藁灰釉を考える
小代焼の釉薬として代表的な青小代・白小代・黄小代、さらに流し掛けに使用する釉薬は藁灰釉です。
藁以外でも笹、竹、籾殻、萱などを使う場合もありますが、いずれもイネ科の植物灰であることは共通しています。
中平窯の場合ですと藁灰・土灰・長石の3つを調合して白小代の釉薬を作っています。
それに木灰・陶土もしくは鉄(ベンガラ)などを加えると青小代や黄小代になります。
※釉薬に使う原料や調合は窯元によって違います。
古い小代焼では象嵌、刷毛目、鉄絵(絵というより文字)などの作例も見受けられますが、あくまでも主体は藁灰釉です。
源流を同じくする上野焼が江戸後期になるにつれて多彩な釉薬・装飾技法を取り入れていくことと対照的です。
中平窯でも様々な釉薬がありますが、8割以上は何らかの形で藁灰釉を使っています。
「小代焼はどこまで行っても藁灰釉」という想いが強いのです。
まぁ楽しみで白磁や梅花皮を焼く時もありますが、あくまで“個人的な楽しみ”です。
…と言いつつ「鉄絵なんかもやってみようかな~」と取り留めもなく考える今日この頃なのでした(笑)
う~ん、今日は文章の締め方が分からなくなってしまいましたが、一応このままにしておきます。
2021年11月10日(水) 西川智成
青小代輪花七寸鉢 藁灰釉を施した新作
小代焼発祥を考える
久々に小代焼の発祥について考えていきます。
今回は定説である「細川家の移動に伴い、上野焼職人が福岡から熊本へ移動した」説についてです。
まぁ結論から言いますと、この説でほぼ間違いないと思います。
基本的に小代焼発祥についての質問には、この「細川家の移動に伴い、上野焼職人が福岡から熊本へ移動した」と説明します。
しかし個人的に気がかりなこともあります。
上野焼職人が移住した当初の制作実態がよく分かっていないことです。
南関町に残っている瓶焼窯跡が、確認されている中では最古の小代焼窯跡となります。
この窯は1700年代に改築された窯で、その下に一回り小さな窯跡も確認されています。
この瓶焼窯跡以前の実態がはっきりとは分かっていないというのが現状です。
(地下にある一回り小さな窯跡の開始時期はいつ頃か?肥後入国直後はこの一回り小さな窯で焼いていたのか?初期は別の窯があったのか?などなど)
1644年には牝小路家・葛城家(上野焼から熊本へ移ってきた焼き物職人)が南関町に定住していたと思われる資料があります。
両家は屋敷近くの田畑を耕し、税の面でかなり優遇されていたという内容です。
その1600年代の制作実態が分かれば、より一層小代焼への理解が深まるだろうなと思います。
「荒尾市の古畑窯」や「八女市の男ノ子焼職人」が関わっているという説がネット上でも散見されますが、どちらも確かな文献・物証は見つかっていません。
古畑窯は確認できる中では熊本県で最古の登り窯跡ですので、小代焼と繋がりがないとしても貴重な窯跡であることは確かです。
この件に関連して加藤清正や井土(韋登)新九郎と小代焼の関係に言及したサイトも見受けられますが、加藤清正や井土(韋登)新九郎と小代焼との関係は憶測の域を出ていません。
男ノ子焼職人は1600年代半ば~1600年代後半に小岱山へ移ったとする文献(伝承?)があるそうなのですが、当時小代焼では民間への卸売をしておらず牝小路家・葛城家による一子相伝の時代です。
仮に小岱山へ男ノ子焼職人が移った事が事実だとしても、牝小路家・葛城家が制作していた小代焼との繋がりは見つかっていません。
もしも牝小路家・葛城家側の文献から「男ノ子焼職人を迎え入れた。」等の記述が見つかれば、小代焼の歴史が大きく変わるかもしれませんが…!
上記2説について有田町の九州陶磁文化館に尋ねましたが「う~ん、今のところ小代焼と関係あるとは言えませんね~。」とのことでした。
…いやいやしかし、今回は話題がマニアックになりすぎましたね(笑)
暇な時にでも読んでください。
歴史の新説について、文献等の情報をお持ちの方はお問い合せフォームからご連絡いただけますと嬉しいです!
2021年11月3日(水) 西川智成
瓶焼窯跡 小代焼窯跡としては、確認されている中で最古
紆余曲折の展示会 無事終わりました!
【小代焼中平窯 30周年展】何とか無事に終わりました~!
コロナで延期を余儀なくされた展示会でしたが、幸い感染状況が落ち着いた中で行うことが出来ました。
多くの方からお祝いの言葉をいただきまして有難い限りです。
今回は「何気ない普通の器作り」の大切さを感じた展示会でした。
誰かが「初日で売り切れるのが良い展示会ではなく、最終日までお客さんが楽しめるのが良い展示会だ。」と言っていたような…?
誰か忘れましたが(笑)
最初の3日間で普段使いの器が少なくなってしまい、後半にお越しいただいたお客様も もっと楽しめる展示会にしなければな~と思いまして…。
少し気が早いですが、来年の春の展示会までに制作する物もおおかた決まりました!
他のイベントが落ち着きましたら、また飯碗やそば猪口、お皿などなど
普段使いの器を中心に作っていきます!(^^)!
2021年10月22日(金) 西川智成
2021年秋 登り窯を焚きました(^^)
2021年9月に焚いた登り窯。
先日 作品をすべて出し終えました。
私が小代焼中平窯に勤め始めて5年が経ちましたが、今回はその中でも最高の焼き上がりと言っていいです!!
実は窯焚き中にとあるトラブルがありまして、落ち込んでいたと言いますか…
正直体調が悪くなるくらい心配していまして、窯の中を見て無事を確認した時はホッとしました。
※トラブルの内容は落ち着いたら改めて書くかも…?
いや~、今回ほど窯の神様に感謝したことはありません(笑)
今月は8日(金)から30周年展、その他取材2つ、窯元巡りなどなど…
てんこ盛りですが、一段落しましたら また薪割り・土作りからコツコツと進めていきます!(^^)!
2021年10月3日(日) 西川智成
登り窯 煙突
登り窯 注連縄
30周年展 10月開催!(^^)!
最近の「とある窯元の主張」がこの話題ばかりになり、すみません…(^^;
熊本県の蔓延防止等重点措置が今月末に解除予定であることを受けまして、10月に展示会開催を決めました(^^)
しかし「コロナ」って何なんでしょうね?
全体像が分かるのは5年後10年後とかになりそうな気がします。
私は一昨日2回目のワクチン接種を終えてこの文章を書いています。
まぁ接種するかどうかは自由なんですが、個人的にはスムーズに2回の接種を終えられたことは有難いことだと思っています。
副反応が収まったら、展示会へ向けてどんどん作陶しますー!!
‐‐‐‐‐‐‐‐
場所:小代焼中平窯 熊本県荒尾市樺1192
期間:10月8日(金)~10月12日(火)の5日間
時間:9:30~17:00
概要:会期中は一部を除き、2割引きにて展示販売いたします。
また、アルコール消毒の設置、常時換気、スタッフのマスク着用、飲み物サービスの中止等新型コロナ対策も行った上での開催となります。
小代焼は熊本県北部で始まった陶器で、国の伝統的工芸品に指定されています。その小代焼窯元の一つ「中平窯」が開窯30年を迎えました。
窯元の西川講生は人吉の一勝地焼で焼き物の道へ入り、1991年に生まれ故郷の荒尾市で独立。
長年、普段使いの食器を中心に作陶してきました。
そして5年前の2016年、息子の西川智成が作陶に加わりました。
現在では釉薬の調合や窯焚きの担当は西川智成へと移り、伝統を大切にしつつ試行錯誤を続けています。
今展示会で小代焼中平窯の紡いできたことと新たな取り組みを同時にお見せできればと思います。
2021年9月13日(月) 西川智成
西川智成
西川講生
30周年展 延期することになりました…!
う~~ん…!
9月に30周年展を予定していたのですが、残念ながら延期を決めました。
難しいですね。
この文章は2021年8月28日現在を記録する意味もあります。
数ヶ月後~1年後とかに読み返してみようかなと思います。
まあ言わずもがな、新型コロナウイルス感染症の影響です(-_-;)
いやいや、強いですねデルタ株…。
出来れば10月には開催したいと思っていますが、まだどうなるか分かりません。
とりあえず今月中旬から制作予定を組みなおしました。
本来であれば今頃登り窯の窯詰め中ですが、そちらは先延ばしにして成形作業中です。
会期が延びたのは仕方ありませんので「制作時間が増えたから、たくさん作れる!!」と考えることにします。
正式に会期が決定しましたらInstagram、ホームページ等でお知らせいたします!
質、量ともに より充実させたいと思っていますのでご期待ください(^^)
展示会中はもちろんのこと、普段の営業時間中も新型コロナ対策を行った上で営業いたします。
今後とも小代焼中平窯をよろしくお願いいたします!
2021年8月28日(土) 西川智成
成形・窯焚きはコツコツ進めます。
一生でどれだけ仕事ができる?
「一生で300回」
この数字は果たして多いのか…?少ないのか…?
私にとっては、とても少なく感じます。
これは一生のうちの窯焚き回数なのです。
※年6回×50年という単純計算ですので、実態とは少し違うかもしれませんが…(^^;
なんとなく日々の仕事をしていると特に考えませんが、改めて「あと何回焼けるんだろう?」と考えました。
20歳~70歳まで事故や病気などのアクシデントなく仕事をしても300回しか焼けないと考えると、とてつもなく少ない気がしまして…。
20代のうちからこんなことを考えんでも良い気もしますが
「人生が3周あれば、頑張って1,000回くらいは焼けるのにな~!」なんて思ってしまいました。
なんだか日々の取るに足らないことで動揺して制作の手を止めてしまうのは、とてももったいないなぁと。
まあ目の前の仕事を地道に進めるのは変わりませんが、一回一回の窯焚きを大切にしていこうと思う今日この頃なのでした。
2021年2月2日(火) 西川智成
窯焚き中の登り窯
2021年 制作の目標について
明けましておめでとうございます(^^)
小代焼中平窯の西川です。
今回は今年の目標について箇条書きで書いていきます。
まぁ、個人的なメモのような性質が強い文章ですが、今年の終わりにでも見返すと新しい発見があるかな~と(^^;
少しばかりお付き合いください…!
【釉薬について】
・梅花皮釉を完成させる。
・新しい原料で藁灰釉、土灰釉、透明釉系の実験を成功させる。
【器について】
・食器の形や雰囲気を和食器・洋食器で意図的に分ける。
・和食器は古小代や古陶磁の雰囲気を大切にする。
・洋食器はシンプルなデザインを心掛ける。
【お茶について】
・5年、10年単位で気長に。
・小代焼の本流を意識する。
ざっとこんな感じです(^^)
あとはその都度、課題を見つけて取り組んでいこうと思っています。
ちなみに1月2日(土)より営業しております。
本年も小代焼中平窯を、どうぞよろしくお願いいたします!
2020年1月3日(日) 西川智成
石の杖をつくミノタウロス
お茶を習い始めました(^^)
タイトルの通り、今月から少しずつお茶を習うことになりました!
前々からお茶道具に興味はあったのですが中々踏み出せずにいました…(^^;
今回はご縁がありまして、熊本市内で月2~3回ほどお稽古をしていく予定です。
私自身、古小代を見るときに雑器に面白みを感じることもあるのですが、お茶道具の方により魅力を感じていました。
※お茶道具の方が優れているということではなくて、私個人の好みの問題です。
今は右も左も分からない状態ですが、ちょっとでも制作の糧にしていければと思います(^^)
2020年12月16日(水) 西川智成
自作の灰釉茶碗
富本憲吉氏について
【現代陶芸の造形思考】
大学時代からたまに読み返している本ですが、未だに100%は理解できていません。
表紙は富本憲吉氏の白磁大壺。
富本氏は「模様の作家」「民芸運動の立ち上げメンバー」として、陶芸界で有名です。
しかし、当時としては珍しく 作家として模倣の延長ではない独自の表現を模索していたり、
後に民芸(というより柳宗悦氏)にかなり強く反発して訣別したことは あまり知られていないように思います。
個人的には富本氏に賛成or反対みたいな強い感情は無いのですが、現代に繋がるとても重要な歴史の1頁としてとらえています。
以下、富本氏の言葉です。
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『造らんとする壺の外線を心におきつつ轆轤すれば、軟らかき陶土の無数の異なりたる外線は内に外にうごきて止まず。われはこれを「線の戦い」と名づけたり。』‥1914年
※現代陶芸の造形思考より
『だが、しばらくするうちに、彼らの主張に根本的に私と相いれぬものがあるのを発見したのである。私は民芸派の主張する、民芸的でない工芸はすべて抹殺されるべきだというような狭量な解釈はどうにもがまんならなかったのだった。』‥年代は不明
※出川直樹氏の著作より
2020年11月19日(木) 西川智成
【現代陶芸の造形思考】
【小代焼中平窯 秋の展示会】無事に終了しました(^^)
2020年10月30日~11月3日の5日間、小代焼中平窯にて『秋の展示会』を開催し、無事に終了しました(^^)
世界中が厳しい状況が続いていますが、本当にありがたいことに多くのお客様にお越しいただきました!
ありがとうございました!
会期を2日→5日にしたことで、ある程度 密集を避けた展示会になったかと思います。
暫くはその他の新型コロナ対策も徹底し、今回のような形で展示会を行っていく予定です。
小代焼中平窯の陶器は全て手作りであって一点物が多いです。
さらにサイズや形を揃えた数物であっても、作品一つ一つに個性があります。
微妙な違いを見比べながら作品を直に選ぶ楽しみは、窯元ならではの体験だと思いますし、中平窯ではそこを大切にしたいと考えています。
取り敢えず片付けを済ませてから粘土作り・薪の整理を行い、作品制作の準備を進めます。
いくつか新作の構想がありますので、来年にはお見せできるように頑張っていきます!(^^)!
2020年11月7日(土) 西川智成
本の紹介 【魯山人陶説】
“つまらない人間に限って、あさはかな了見で計画的に造る作品は、ピントがはずれているのみならず、卑しく嫌みで見られない。”
美食家、陶芸家、書道家など 様々な顔で知られた北大路魯山人氏の著作「魯山人陶説」。
魯山人氏は毒舌家としても有名で同時代の陶芸家、鑑賞者、料理人などなど ことあるごとに著名人を罵倒しています(笑)
最近の陶芸本で、ここまではっきり自己主張したものには出会えないので なかなか貴重な書籍です。(賛否は置いといて)
昭和陶芸界に多大な影響を及ぼした方々の本を持っていますが、最近は魯山人氏のものを読み返すことが増えてきました。
罵倒の中にハッとさせられる言葉、耳が痛い言葉が見つかります。
以上、昭和~現代まで賛否両論ある北大路魯山人氏の紹介でした。
因みに「魯山人味道」という本の方では毒舌は抑えられていて、美食家としての一面が垣間見えます。
2020年9月25日 西川智成
魯山人陶説
北大路魯山人氏
熊本地震後、希望の双葉
【サル 双葉】
熊本地震があったその日、その時間に この作品を制作していました。
大きな被害はありませんでしたが揺れが怖く、数日の間 工房に入らない日が続きました。
久しぶりに制作を再開すると、作りかけのサルから双葉が生えていることに気づきました。
粘土の中に植物の種が入っていたようです。
災害のあったタイミングで双葉が生えていたことに希望を感じ「なんだかいいなぁ」と。
生えていた双葉は自宅の目の前に植え、代わりに粘土の双葉をサルにつけました。
8月16日(日)に【小代焼中平窯展】は無事に終了しました(^^)
会場までお越しいただき、ありがとうございました!
作品の荷解きを終えたら、また制作に戻ります。
今後とも宜しくお願いいたします。
2020年8月18日(火) 西川智成
サル 双葉
復興が進む熊本城 2020年8月16日(日)
半年ぶりの展示会
7月17日(金)~21日(火)の5日間、【小代焼中平窯 夏の展示会】を開催しました。
その最終日にこの文章を書いています。
新型コロナの影響で1月の大阪dandelionさんでの展示会以来、実に半年ぶりの展示会です。
今月の初めは九州を中心に大雨が降り、例年以上に様々なことに気を使いながら準備を進めてきました。
今回はプレスリリースをすべて取り止め、ハガキでのお知らせも熊本県を中心に地域を限定してのご案内となりました。
普段とは違う形式の展示会となりましたが常連のお客様を中心に多くの方に来ていただきました。
日本全体で厳しい状況が続きますが、そのような中お越しいただき とてもありがたく思います。
これから新しい薪窯を作ったり 新しい釉薬の実験をしたり、今はやりたいことがあれやこれやと頭に浮かんでいる状態です。
少しでも良いもの、焼き物として面白いものを作れるよう制作を続けていきます。
今後とも小代焼中平窯をよろしくお願いいたします。
2020年7月21日(火) 西川智成
夏の有明海 材料の貝殻はここから拾ってきます。
古小代 魚形皿の公開を始めました!
今月より江戸後期の作と思われる『魚形皿』の展示を開始しました(^^)
図録に登場する作品はよくヒラメやカレイとされていますが、展示中のお皿はタイをモチーフにしているように見えます。
このお皿以外にも三耳壺、茶碗、水指、雲助などの古い小代焼を公開中です。
小代焼中平窯では「制作背景や歴史、地方性も含めてお客様に体感していただきたい!」という思いがあります。
そのため普段から古作の展示や工房見学を実施しています。
また、以前ネット上では小代焼の歴史等について不正確な情報を載せていたり、正確なものであっても文章量が少なかったりするサイトが多い状態でした。
専門的な内容が多いので一般的なお客様には関係ないことですが、
「小代焼を深く知りたい」という方のためにこのホームページを通して歴史・制作過程に関する事柄を発信していきます!(^^)!
2020年6月12日(金) 西川智成
古小代 魚形皿
古小代 魚形皿
盗む人
自分で書いておきながら穏やかでないタイトルですね…^^;
今回は文字通り“盗む人”がテーマです。
普段の展示場ではめったにありませんが、人がごった返すような合同展や陶器市なんかでは「あれ?包んだ覚えがないのにぐい呑みが無くなってるな…。」ということがたまに起きます。
そうです。作品を盗む人がいるのです…!
父が一勝地焼で修業していた時代は“民藝ブーム”(民藝については、またの機会に書こうと思います。)があって、山の中にある窯元にも大勢のお客さんが訪れていたそうです。
その時代にも“盗む人”はいたようで…。
不自然に開いた傘を持っている人が、ぐい呑みや一輪挿しなどの小さな品物を傘の中に放り込んで帰っていくことがありました。
そんな時に父の師匠は問い詰めることもなく
「盗んだ品物と一緒に悪い因縁も持って帰ってもらったんだ。気にすることはないよ。」
と言っていたそうです。
父から話を聞き、とても信心深かった師匠を表すエピソードだな思いました。
2020年4月29日(水) 西川智成
展示会中の野外展示 中平窯のお客様は良い方ばかりでありがたいです(^^)
別の視点から見る『民芸』
実は数か月前にインフルエンザに罹って、自宅内で隔離されていました…^^;
おかげで本を読む時間がたっぷりあったので、今回はその感想を書いていこうかと思います。
1冊目は加藤唐九郎氏の『やきもの随筆』初版1962年
2冊目は出川直樹氏の『民芸 理論の崩壊と様式の誕生』1988年
立場の違いや書かれた年代を超えて、2つの本はあるキーワードで意見が一致します。
そのキーワード『民芸』です。
書店で民芸特集の本を読んでもなんだかフワッとしているというか、
「手作りっていいよね~(^^)」という内容ばかりで物足りなさを感じていたので、これらの本は読みごたえがありました。
(フワッとしていること自体が悪いとは思っていません(^^;
むしろ初めて興味を持った人のためには大切なことですし、工芸の幅を広げてくれるありがたい存在だと思っています。)
柳宗悦氏の思想や民芸理論について
加藤氏はカトリシズムや柳氏の貴族性という切り口から批評し、出川氏は社会主義的側面や民芸理論の破綻という切り口から批評しています。
その批評を比べると
「民芸理論は生身の人間や、民衆が当たり前に持っている個性を否定している。
また民芸調・民芸風の品物を作ることはできるが、本当の意味で柳氏の理想とする民芸を作り出すことはできない。」
という内容で一致しています。
その後の展開として
加藤氏は「民芸作家の作品は民芸風であっても個人作家の作品であるので、その創造性をきびしく評価し鑑賞する必要がある。」
出川氏は「民芸理論は様々な部分で破綻しているが、柳氏の審美眼は素晴らしい。これを理論ではなく柳氏の“好み”や“様式”と捉え、民芸様式の質や価格を市場経済に任せれば発展できる。」
という結論に達しています。
この結論は二人の立場(加藤氏は陶芸作家、出川氏は工芸研究家)を端的に表しているようで、とても興味深いです。
書籍の数としては民芸を肯定するものが圧倒的に多いと思いますので、別視点の内容にも触れるとなかなか面白いものです(^^)
2020年4月4日(土) 西川智成
窯の神様
中平窯では登り窯には神様がいると考えています。
窯焚きの時には米・塩・酒を登り窯に捧げ,二礼二拍一礼をしてから焚き始めます。
ちなみに神社等で二礼二拍一礼を全国的にするようになったのは昭和に入ってからで、比較的新しい作法のようです。
江戸時代は神様への敬意が表れていれば、どんな作法でも問題にはなりませんでした。
父が修業していた1970年代は、今以上に“窯の神様”への信仰が厚かったそうです。
父の師匠である故・成田勝人氏は熊本県最南部にある一勝地焼の10代目でした。
父の師匠は窯焚き1週間前から水をかぶって体を清め、毎日お経(祝詞ではなかったそうです。)をあげていました。
いざ窯焚きの日が近づくと、窯の周りを注連縄でぐるっと囲い神聖な場としました。
その当時の修業先では窯場に女性は入れませんでした。
しかし、ひょんなことから師匠の奥様が窯焚き中に入ってしまい ちょっとした騒ぎになった事が父の記憶に強く残っているそうです。
時は流れて現在(2020年)の中平窯では、そこまで厳しい作法はありません。
しかし、窯に祈りを捧げ火を入れた瞬間の時間・雰囲気というのは なんとも言えない感覚になります。
なんと言うか、気が引き締まる特別な時間です。
こういう言葉ですべてを説明できないことこそ、大切なんだろうなと思っています。
2020年2月15日(土) 西川智成
焼成中の作品
クロザル ~自撮りをしたサル~
私は家業としての小代焼の制作以外に、動物をモチーフにした置物やお面も作っています。
私自身と鑑賞者 ともに感情を入れやすく、またヒトに近い動物ということでサルをモチーフにすることが多くあります。
今回はお面のモチーフにした「クロザル」というサルの逸話を紹介します。(今回は焼き物と関係ない話題です…^^;)
クロザルはインドネシア・スラウェシ島に生息するサルの仲間です。
このサルは「自撮りをしたサル」として2014年に有名になりました。
2011年にイギリスの写真家デイヴィッド・スレイターがクロザルの撮影のためにカメラを三脚に設置し、カメラのリモートスイッチをクロザルが触れることができるような形で放置しました。
あるメスのクロザルがそのリモートスイッチを押し、自撮りをしたのです。
カメラの持ち主であるスレイターは当然、自身に写真の著作権があると思っていましたが、サルは法律上の人ではなく著作権を持つことが出来ないため写真に著作権は発生しないという指摘を受けることとなります。
結局、2014年アメリカ合衆国著作権局は人間以外の動物による作品はアメリカにおける著作権の対象とはならないと宣言しました。
さらに2016年アメリカ合衆国連邦裁判所でサルは画像の著作権を有しないと判断されました。
サルが自撮り(サル自身にその認識はないでしょうが…)したことで、裁判にまで発展したことが面白く、クロザルはお気に入りのモチーフです(^^)
ちなみにこの騒動をきっかけに、動物愛護団体がサルにも著作権が認められることを求め裁判を起こしたそうです…^^;
2020年1月28日(火) 西川智成
クロザル面
クロザル面
最近読んだ本について
10月に登り窯を焚きながら(窯焚き前半はけっこうスローペースなので、本を読む余裕がある)読んだ本の紹介です。
出川直樹氏「民芸 理論の崩壊と様式の誕生」
内容は好き嫌いが分かれそうな感じでしたが、最近読んだ本の中では一番興味深く読むことができました(^^)
端的にまとめると
『柳氏の審美眼を認めつつも、民芸理論や民芸運動の矛盾点を丁寧に指摘する。
そして、民芸は理論としては矛盾点が多いが「民芸様式」や「宗悦好み」という立ち位置であれば矛盾も無く、今後の発展もあるのではないだろうか。』
という内容でした。
柳氏の著作(「工蓺の道」「民と美」など)を読んだ後に「民芸 理論の崩壊と様式の誕生」を読むことで全体が理解できる内容かなと思いました。
私個人として印象的だったのは「民芸様式の特質」として民芸の特徴が淡々とまとめてある部分でした。
「民芸」の話をするときは肯定するにしても否定するにしても感情的になる場合(柳宗悦本人や北大路魯山人などは象徴的です。)が多いという印象を持っていたためです。
「これは正しい」「あれは間違っている」という事ではなく ただただ柳氏の好んだ様式が箇条書きで示されていました。
今まで、私の中では柳氏を「生きている個人」として認識していました。
しかし、感情的な深入りをせずに歴史の1ページとして距離をおいて「民芸」を論じるあり方は新鮮でした。
従来の民芸理論に親しんでいると 受け入れにくい内容も含まれていますが、新たな視点を気付かせてくれる貴重な一冊です。
2019年11月3日(日) 西川智成
「民芸 理論の崩壊と様式の誕生」
“昔ながら”の作り方とは…?
中平窯が携わっている「小代焼」は約400年間、技法(特に藁灰釉や流し掛け)が大きく変わらずに受け継がれています。
時代に合わせて主体となった技法が変わったり、途絶えたりする焼き物がある中で珍しい事例だと思います。
しかし、生産の形態には時代時代で変化があり、一概に「昔は○○だった。」とは言えません。
まず江戸初期から後期までの200年間ほどは二つの家(牝小路家・葛城家)による一子相伝の時代があります。
この時期は卸売をしておらず、両家が一年交代で一つの窯を使うという小規模生産・小規模消費の時代でした。
制作する器としては藩の役所などで使う茶器類が多かったようです。
小代焼の歴史の中でも、かなり長い期間この形態をとっていました。
江戸後期になると瀬上窯が築かれ、職人を雇って生産し 卸売をするという大量生産の時代が数十年間ありました。
幕末に瀬上窯から分かれた野田窯でも、従業員を雇って生産していたようです。
(時期によって人員の増減あり)
この時期に民間用の多種多様な製品(食器に限らず湯たんぽ・味噌漉し・蒸かし器なども)が作られています。
激動の幕末~明治、その後に大正~昭和~平成をへて現在は12軒の窯元が熊本県内で活動しています。
小代焼の窯元数でいえば歴史上 最多です。
江戸時代の小代焼を代表する牝小路家・葛城家・瀬上家は現在小代焼の制作には携わっておらず、現在活動中なのは昭和~平成に開窯した窯元が大半です。
こうやって歴史を遡っていくと、時代に沿って生産形態が移り変わっていったことが分かります。
中平窯としては伝統的な「藁灰釉や流し掛け」に魅力を感じているので、その技法を突き詰めていこうと思っています。
しかし、ただ漠然と“昔ながらのやり方”を目標にするのではなく「いつの」「どんな」“昔ながらのやり方”が理想なのか?とういことを意識して作陶していきたいと思っています。
2019年9月14日(土) 西川智成
江戸時代に稼働していた「瓶焼窯」跡
窯元で直売することの価値 ~モノを売るだけで終わらない~
焼き物屋がホームページを作ったワケ
私がホームページの運営を始めて3年の月日が経ちました。
焼き物を生業としている「窯元」はそれなりの軒数がありますが、継続的にホームページを運営している窯元となると そう多くはないと思います。
私がホームページを始めた最初の動機は“多くの方々に中平窯を知ってもらうため”です。
ホームページを運営し始めてからは県内外を問わず初めてのお客様に出会うことが多くなり、当初の目標に少しずつ近づいてきました!
それと同時にきちんとした小代焼の情報(歴史とか特徴とか)を、求めている人に届けたいとも思うようになりました。
そのため販売に直接は繋がらなくても、現在は小代焼の歴史などの情報を載せるようにしています。
…かなりマニアックな内容なのでどれくらい見てもらっているか分かりませんが^^;
作陶の合間に情報発信をしているので不定期になりますが、当ホームページが少しでも小代焼の理解に役立ってくれれば…!と思っています。
2019年6月30日(日) 西川智成
窯焚きの様子