歴史

小代焼の歴史

 

1632年、細川家が豊前から肥後へ転封される際、これに従った上野焼陶工の牝小路源七(ひんこうじげんしち)と葛城八左衛門(かつらぎはちざえもん)が焼物師を命じられ、小岱山麓に登り窯を開いたのが始まりとされています。

 

また、当時の上野焼陶工は自由に移動をしていたようで、細川家からの命令ではなく陶工ら自身の意思により、豊前から肥後へ移ったとの見解もあります。

牝小路源七は丹後国(現在の京都府北部)、葛城八左衛門は豊前国(現在の福岡県東部・大分県北部)の陶工であろうと言われています。

 

別名を「五徳焼(ごとくやき)」や「松風焼(まつかぜやき)」とも呼ばれました。

五徳焼は毒を消すなどの五つの効能があると謳われたための名称です。

松風焼は南関町の肥後と筑後の国境に設けられた関所が「松風の関」と呼ばれたため、用いられた名称です。

 

江戸時代の小代焼は他国で消費した形跡がほとんど確認されず、基本的には肥後藩内での使用に限られていたようです。

このように他国との接触が少なかったことが、藁灰釉や流し掛け技法の多用、千段巻掛花入や梅鉢に見られる特殊な製品に繋がったのではないかと思われます。

 

南関町では江戸時代の瀬上窯や瓶焼窯の窯跡を見ることができ、当時の様子を今に伝えています。

江戸時代の小代焼 「三耳壺」
現在の窯出し風景(小代焼中平窯)

窯跡について

【瓶焼窯】

瓶焼窯は葛城家と牝小路家が共同で使用した窯です。

発掘調査によれば現在の窯跡は1769年に築かれた新窯で、その下に古窯跡が存在することがわかりました。

古窯を壊してその上に一回り大きな窯を築いています。

 

瓶焼窯の改築の経緯は『小代焼物始よりの書付控』に記されています。

それによれば、牝小路家(七代)・葛城家(四代)が

「窯屋が破損し、火廻りが悪く焼物の出来が良くないので御用焼物にも差支えている。

そこで新窯築造のための丸太、坑木、竹、萱などの用材や、のべ七百人の人夫代銀七百目の拝領を願い出る。」

という内容でした。

しかし、改築の人件費は自前で賄うことになりました。

 

【瀬上窯】

瀬上窯は他国産の陶磁器流入に対抗し、小代焼の増産を目的に江戸後期の1836年に築窯されました。

瀬上林右衛門が窯元となり、多くの焼き物職人を雇い入れ、多種多様な陶器を大量に生産しました。

この時期に土瓶などに“飛び鉋”(小鹿焼や小石原焼のものが有名)という装飾が施されるようになり、他国からの作陶技術の流入が考えられます。

 

瀬上窯跡の近くには水簸場(粘土を精製する場所)や車壺(ロクロ場)の跡も見つかっており、小代焼の歴史において最も盛んだった当時の様子を今に伝えています。

古小代の里公園

 

【古畑窯】

確認されている中で熊本県最古の朝鮮系窯跡“古畑窯”が荒尾市にあります。

この窯は細川氏入国以前、加藤氏時代の窯跡と推測されています。

窯の構造や製品から見て初期の肥前陶器(唐津焼)との関係が深く、釉薬は灰釉が主体で藁灰釉や黒釉も見られます。

 

しかし、出土した製品には周知の小代焼と異なる点が多く、小代焼発祥との関係は確認できません。

さらに、加藤氏との関わりや誰が製品を作ったかなども確定しておらず、さらなる調査が望まれます。

瓶焼窯跡
瀬上窯跡
車壺(ロクロ場)跡

『しょうだいやき』の名称の由来

 

“しょうだい”の名称は鎌倉時代の武士である小代氏に由来します。

 

もともと武蔵国(現在の東京、埼玉、神奈川の一部)の御家人であった小代氏は玉名郡野原庄の地頭となり、元寇をきっかけにこの地に定住し、山城を築きます。

山城は小代城(筒ヵ嶽城)と言われ、小代山(現:小岱山)の呼称となりました。

 

そして小代山(現:小岱山)の周辺で始まった焼き物というので小代焼と呼ばれるようになりました。

 

現在では小岱焼と表記される場合もありますが、中平窯では江戸時代の呼称として“小代焼”の字を使用しています。

小岱山周辺

営業時間 10:00~17:00

定休日  水曜日、木曜日

電話番号 0968-68-7326

 

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